「“圭子の”夢は夜ひらく」ってタイトル、なんかスゴくない? [音楽]
「圭子の夢は夜ひらく」は、1970年、ご存知、宇多田ヒカルさんのお母さんである藤圭子さんが大ヒットさせた楽曲です(こちらは、同年収録のライブ・バージョン)。
この「圭子の夢は夜ひらく」の大元である、「夢は夜ひらく」という楽曲の発祥と発展については、ウィキペディアの「夢は夜ひらく」の項目でもごらんいただくことにして(この場を借りて、この楽曲を発掘・発展させた、曽根幸明さん、そして石坂まさをさんのお二方に、多大なる敬意を表したいと思います。R.I.P. ちなみに“大元の大元”に精神的に近いカバーとしては、三上寛さんのバージョンがございます)。
これら2曲、特に「夢は夜ひらく」は、園まりさんが歌ってヒットさせたもの(日活で映画化もされました。売り出し中だったドリフターズが、湿っぽいメロドラマであるメインのストーリーにまったく関係なく出てきて、音楽コントを披露しています…)を、ここでは主に取り上げますが、まったく印象が違うことに驚かされます。
もちろん実際に聴いてみて、ハッキリと「あ、コレは違うな」ということはできるんですが、問題はそれ以前のお話。
「夢は夜ひらく」、
そして
「圭子の夢は夜ひらく」。
どうでしょう。
こうして、タイトルを並記しただけなのに、印象がガラッと変わってしまうのです。
いわば、もともとあった曲名に、人名が乗っかっただけ。
「アキラの(きよしの)ズンドコ節」的だとも言えるのですが、決定的になにかが違うのです。
これは、「ズンドコ節」に人名がかかっても「あぁ、その人(小林旭さん、氷川きよしさん)が歌うバージョンなんだな」ということで、なんというか、まぁ、終わってしまうわけなんですが(それぞれ歌詞は違いますが)、「夢は夜ひらく」の場合。
そこに「圭子の」が上乗せされることにより、「夢」はただの「夢」ではなく、
「圭子の夢」
へと、変化を遂げるわけなんです。
ただ単に「夢は夜ひらく」というタイトルだった場合、まぁ、ロマンチックだとか、せつない女心だとか、そんなイメージが浮かんでくるんですけど、この場合「“圭子の”夢」ですから。
その「夜ひらく」「“圭子の”夢」とは、いったいどんな夢なんでしょうか。
妄想は、とどまるところを知りません(知るか!)。
いずれにしましても、この
「圭子の」
がタイトルの頭につくことによって、「圭子の夢は夜ひらく」は、多くの人々のイマジネーションを喚起し、いわば
《「夢は夜ひらく」の代表作》
になってしまったわけで、たかがタイトルひとつとっても、決してバカにはできない、ということがわかるわけです。
実際、「圭子の夢は夜ひらく」以後、それぞれ新しい歌詞で、歌手名を頭につけた
「◯◯の夢は夜ひらく」
という、無数のカバー・バージョンが発表されております。
個人的になじみがあるのは、八代亜紀さんによる
「亜紀の夢は夜ひらく」、
そして、ちあきなおみさんによる
「ちあきの夢は夜ひらく」。
こんなあたりでしょうか。
それでもやはり、唯一無二の鈍い光を、今でも放っている
「圭子の夢は夜ひらく」。
特に、おしまいの方の
「一から十まで 馬鹿でした……」
あたりからの盛り上がる感じは、藤圭子さん(永遠に、安らかに……)にしか出せないものだと思いますね……。